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日本語の練習

od nornen, 25. apríla 2016

Príspevky: 98

Jazyk: 日本語

Blanka Meduzo (Zobraziť profil) 2. mája 2016 13:29:29

nornen:すみません。私は意図を明確にするのができなかった。意図はこれ:私が山の村に生まれたのは真実よ。だけど私の村はちゃんとしたのではないから、「嘘です」と書いたんだ。
別の例を挙げます。
私は山の村に生まれました。…と書けば伝記としては美しい書き出しになりますが、「村に」というのは正確ではないかもしれません。八十人足らずの住民しかいない集落を「村」と呼ぶのは、本当の「村」(ちゃんとした「村」)に対して失礼だからです。
日本語「嘘」というのは、人格を持った登場人物の行為として使われ、「悪意」「騙す」「裏切る」「ごまかす」というニュアンスがあると僕は思うので、ここでは「嘘」という単語は使わないのが良いと思います。

また、「村と言うにはおこがましい」「村と称するにはあまりに小さい」「村と呼ぶには(あまりに)粗末な」「村と言うには簡素に過ぎる」など、「~と呼ぶには、あまりに××」「~と言うには、あまりにも××」などの言い回しがあります。

Blanka Meduzo (Zobraziť profil) 2. mája 2016 13:40:04

Junpe:
人生は気楽で単純で静かでした。
「気楽」というのは良いですね。

ただ、日本語では生まれてから死ぬまでの「生活」の全過程か、あるいはかなり長期間の「生活」の継続が「人生」なので、区別したい気はします。

文の前後関係にもよりますが、「生活が気楽」というと衣食住のことを心配しなくて良いというのがベースにあるように思えます。
「人生が気楽」というと、生活が安定している上に、その人にとって長期間にわたって重要な決断が不要であるとか、生活を揺るがし生活様式の変更を余儀なくされるような、外的な事象(失業、病気、災害)などが一般的に想定しにくい、言い換えると安定はしているが閉鎖的で停滞的な経済環境・生活圏をイメージするかもしれません。

Junpe (Zobraziť profil) 2. mája 2016 15:36:22

Blanka Meduzo:日本語「嘘」というのは、人格を持った登場人物の行為として使われ、「悪意」「騙す」「裏切る」「ごまかす」というニュアンスがあると僕は思うので、ここでは「嘘」という単語は使わないのが良いと思います。
冗談を言って、「嘘です」と付け加えることはあると私は思います。「冗談です」と同じ意味になります。

ただ、ここでの「村」については、はっきりと事実ではないと言い切れることではないように思うので、「冗談です」と言われても笑えないとは思います。

例えば、以下の文なら私には自然に思えます。

「私は日本の山で生まれました。嘘です。山に生まれましたが、日本の山ではありません。」

「私は日本の山で生まれました。冗談です。山に生まれましたが、日本の山ではありません。」

「私は山の町で生まれました。…これは伝記の美しい書き出しになりますが、嘘です。山で生まれましたが、八十人しかいないところ住人がいない集落を町と呼ぶのは、本当の町に対して失礼です。」

「私は山の町で生まれました。…これは伝記の美しい書き出しになりますが、冗談です。山で生まれましたが、八十人しかいないところ住人がいない集落を町と呼ぶのは、本当の町に対して失礼です。」

これを面白いと思うかどうかは個人によるように思います。

Resume, se vi celas ne "tio estas ŝerco" sed simple "tio ne veras", ankaŭ mi rekomendas, ke vi evitu la uzadon de " 嘘です ".

nornen (Zobraziť profil) 2. mája 2016 19:59:48

両方にありがとうございます。
以下の語句が私の意図をとてもよく表すと思います。
私は山の小さな村に生まれました。
…と書けば伝記としては美しい書き出しになりますが、「村に」というのは正確ではないかもしれません。
たしかに山に生まれましたが、八十人しかいないところを村と呼ぶのは本当の村に対して失礼です。
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「Xの中に」というのか、「Xの中で」というのか、いつどちらがいいですか。差は何ですか。これは使用する動詞に依存しますか。

あなたのお陰で多くを学んだのですよ。しかし依然として多くを学ばなければなりません。西洋人に日本語は大変難しいです。日本語を学びに、西洋の文法は知っているすべてを私の頭から引き抜かなければなりません。日本語は別の言語だけないが、別の考え方ですよ。

Blanka Meduzo (Zobraziť profil) 3. mája 2016 12:16:58

nornen:両方にありがとうございます。
「Xの中に」というのか、「Xの中で」というのか、いつどちらがいいですか。差は何ですか。これは使用する動詞に依存しますか。
面白く難しい質問ですね。

僕は文法学者ではないので、以下に述べることは、あくまで個人的な印象です。

「で」は行為、出来事の場所性を「に」よりは強く意識させる気がします。行為や出来事の結果に重点が置かれる場合が多い。
学校で出会う;交差点での事故;山で遭難する:職場で結婚する:家で勉強する
「に」はその人格、行為の主体(擬人も含む)の実存性・存在性・実際の生活・Ekzistado・vivado を想起させます。行為や出来事の結果よりも、どういう性質の人物、どういう性質の人間関係が形成されるかということに注意を向けさせる傾向がある。
山(の中)に生まれる:山の環境の中で生活することを運命づけられている。
貧困(の中)に生まれる:初めから、又は少なくとも初めのうちは貧乏な暮らしを余儀なくされる。
温かい家庭(の中)に育つ:人間関係の豊かな、親からの物心ともに十分な愛情や環境を与えられて、育つ

nornen (Zobraziť profil) 3. mája 2016 17:40:47

ああ、とても難しいのだよ。

別の文の書きに努力しました。

第二章

食肉の品質と酒

豚の屠殺には公衆衛生役員の出席が必須です。
役員は肉を診て、健康あれば印鑑を付けて、健康あらなければ付けません。これは法律だが、現実は別のです。
家族が豚の屠殺する日に役員は朝の五時に町から来て、清潔と衛生の検査しました。役員は最初に歓迎の一杯を飲みました。それから、「片足で立つのができない」と言うから、別の一杯を飲みました。屠殺が始める時に五杯を飲んだ、屠殺が終わる時に十杯。酔っぱらい役員は嬉しくて、嬉しい役員が肉塊のすべてに印鑑を付けます。
この方法で皆さんは勝っていました:公衆衛生役員は酩酊を勝って、私達は売れる食肉を勝っていました。

Junpe (Zobraziť profil) 3. mája 2016 20:16:07

nornen:「Xの中に」というのか、「Xの中で」というのか、いつどちらがいいですか。差は何ですか。これは使用する動詞に依存しますか。
そのようですね。

「居間に入る」
「居間にいる」

「居間を歩く」
「居間を見る」

「居間で座る」
「居間で飲む」

名詞によっても変わるようです。

「椅子に座る」
「居間で座る」

**************

私はこう考えます。

「居間を歩く」
「居間の中を歩く」

「歩く」という言葉は「(ある空間)の中を足を使って移動する」という意味なので、その行為の最中の対象の「ある空間」を示すときに「を」が使われるのだと思います。

「居間を見る」
「居間の中を見る」

「見る」は、「(ある空間)を視覚でとらえる」という意味です。これは行為とみなされます。その行為の対象とされる「ある空間(あるいはそれを占める物)」を示すときに「を」が使われるのだと思います。

「居間にいる」
「居間の中にいる」

「いる」という言葉は「ある空間に存在する」という意味です。この言葉が示すのは「状態( stato )」で、「行為( ago )」とはみなされません。なので、「を」は不適切なのだと思います。存在する人は静止している状態であるようにみなされます。静止の状態がどの空間で続いているのかを示すときに「に」が使われるように思います。

「居間に入る」
「居間の中に入る」

「入る」という言葉の意味は行為です。この行為は、外側にいる状態から内側にいる状態への過程と言えます。行為が完了する状態は内側にいる状態です。行為の結果の状態の場所を示すのに「に」が使われるように思います。

「椅子に座る」

「座る」の意味は、「お尻を下げて、お尻をどこかに着かせるまでの過程」あるいは「お尻をおろして、お尻を上げるまでの過程」という行為だと思います。「に」が示すのは前者の行為が完了する場所です。行為の結果、「お尻」をどこに着けているのか、を示していると思います。

「居間で座る」

「お尻を下げて、お尻をどこかに着かせるまでの過程」あるいは「お尻をおろして、お尻を上げるまでの過程」の行為がどの空間の中で起こったかを「で」は示しているとに思います。

つまり、

「居間で椅子に座る」

と言えます。

「居間という広い空間の中のある一点の椅子にお尻をつけている」という意味です。

「居間で飲む」

「飲む」は、「(ある液体)を体内に口から入れる」という意味です。その行為が居間という広い空間のある一点で起こったということを「で」は示しています。

*******

おまけです。

「店で買う」

「買う」という言葉の意味は、「(ある物)をお金で所有物にする」という行為です。行為の対象の物が「を」で示されます。行為の結果、対象の物がどこにある状態になるのか、つまり誰の所有物になるのかが「に」で示されます。

その行為がどこで起こったかが「で」で示されます。

その他に、「で」には手段を示す意味もあるので、行為の手段のお金も「で」で示されます。

つまり、こう言えます。

「チョコレートを子供たちにお菓子屋で百円で買う」

aĉeti ĉokoladaĵojn (objekto de la ago) por miaj infanoj (loko, kiu rezultas el la ago) en dolĉaĵvendejo (loko, en kiu la ago okazas) por 100 enoj (metodo de la ago).

*********

「貧困に生まれる」

「生まれる」という言葉の意味は、「母親の体内から出る」という過程だと思います。その過程の結果が「貧困」という状況だということが「に」で示されていると思います。

「母親の体内から出る」と「貧困」が結びついていることで、 Blanka Meduzo さんの言うように、「存在性」が「想起させ」られるのだと思います。

「暖かい家庭に育つ」

「育つ」という言葉の意味は、「成熟とされる状態に近づく」という過程だと思います。その過程が完了する環境が「暖かい家庭」だということが「に」で示されていると思います。

「育つ」という過程と「暖かい家庭」という環境が一つのように、必然的に結びついているようにみなされることで、育つ人の性質を述べているように思えるのだと思います。

「暖かい家庭で育つ」

「暖かい家庭」が「育つ」の偶然的な環境であることが示されていると思います。

しかし「暖かい家庭に育つ」と「暖かい家庭で育つ」は、あえて注意を向けなければそれほど大差が感じられないように私には思えます。

「山に生まれる」

「母親の体内から出る」という過程の結果が「山」という場所であることが示されていると思います。

「山で生まれる」

「母親の体内から出る」という過程が(他の場所でも起こりえたけれども)「山」という場所で起こったということが示されていると思います。

「山」は具体的な物なので、「で」を使うと、山が広がりをもって、その広がりの中のある一点で「生まれる」という出来事が起こるように感じられます。

しかし、「山に生まれる」と「山で生まれる」も、あえて注意を向けなければ、ほとんど違いは感じられないように思います。

nornen (Zobraziť profil) 3. mája 2016 20:51:13

どもありがとうございます。

「状態」と「行為」は日本語の分かりにとても大切に見える。
「する」か「している」かどちらを使うについて、「状態」と「行為」は大切だ。
「に」か「で」かどちらを使うについて、「状態」と「行為」は大切だ。

この概念は悉に考えなければならない。

Blanka Meduzo (Zobraziť profil) 3. mája 2016 23:12:04

nornen:どもありがとうございます。

「状態」と「行為」は日本語の分かりにとても大切に見える。
「する」か「している」かどちらを使うについて、「状態」と「行為」は大切だ。
「に」か「で」かどちらを使うについて、「状態」と「行為」は大切だ。

この概念は悉に考えなければならない。
僕も難しいと思います。
簡単に(乱暴に)まとめると、

・山 <で> する… fari
・山 <に> いる… esti (aux esti farante)

だと思います。表現はさまざまなので例外はたくさんあるでしょう。

Blanka Meduzo (Zobraziť profil) 3. mája 2016 23:37:36

面白い話ですね!
nornen:
第二章
食品の品質と酒
豚の屠殺には公衆衛生役員の出席が必須です。
役員は肉を診て、健康あれば印鑑を付けて、健康あらなければ付けません。これは法律だが、現実は別のです。
家族が豚の屠殺する日に役員は朝の五時に町から来て、清潔と衛生の検査しました。役員は最初に歓迎の一杯を飲みました。それから、「片足で立つのができない」と言うから、別の一杯を飲みました。屠殺が始める時に五杯を飲んだ、屠殺が終わる時に十杯。酔っぱらい役員は嬉しくて、嬉しい役員が肉塊のすべてに印鑑を付けます。
この方法で皆さんは勝っていました:公衆衛生役員は酩酊を勝って、私達は売れる食肉を勝っていました。
こう書いてみます。
┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
第二章
豚肉と酒
豚の屠殺には公衆衛生役人の立会いが必須です。
役人は肉を見て、健康あればスタンプを押し、健康なければ押しません。これが法律ですが、現実は別です。
村で豚の屠殺がある日には、役人は朝の五時に町から来て、衛生の検査します。役員はまず最初に歓迎の一杯を飲みます。それから、「片足で立てない」と言って、もう一杯を飲み、屠殺が始まるまでに五杯を飲みました。屠殺が終わる時には十杯以上飲み干してしまいます。役人は酔っぱらって嬉しくなって、酩酊の喜びのうちにすべての肉塊にスタンプを押します。
村人はみんなこの方法で屠畜の検査を通していました。公衆衛生役人は酩酊を手に入れ、私達は売れる食肉を手に入れるのです。
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「役員」は村人の中から誰でも順番や推薦・自薦などで就任しうるもの。
「役人」は(半)公務員など、行政や権力によって任命される必要があるものです。
「診る」は漢字の選択が難しいですね。「診る」は病気の治療の過程の表現で使われることが多いので、ここでは「見る」を私は使います。「見る」には「検査する」「試す」という意味を持たせることができると思います。
「印鑑」は朱肉を使う中国風のものについて言うのが一般的ですから、単に「印」とか「スタンプ」が良いと思います。
「清潔の検査」は「衛生の検査」に含まれるでしょう。
酒を飲むところの時制は、どのようにするのが自然に読めるか、難しいところですね。すべて過去形にしてしまうと臨場感が薄れてしまいます。僕の例が良いかどうかは、あまり自信がありません。

それにしても、目に見えるような話ですね。「片足で立てない」からと酒を要求するのが面白い。

Nahor