Mesaĝoj: 98
Lingvo: 日本語
nornen (Montri la profilon) 2016-majo-20 17:43:10
Blanka Meduzo:Provo mia:Blanka Meduzaさんの翻訳は素晴らしいんだよ。
マヤの人たちにとって、トウモロコシが命と信仰の中心になっている。マヤ人にとって、トウモロコシは大変大事なものなのだ。マヤ人の信仰における人間誕生
テベウ神とグクマツ神は、人間を創る時が来た、と宣言した。青葉の下の水辺に集い、人間をどうやって創り出すか話し合った。
まずは、土で最初の人間を作った。しかし、土で出来た人間はうまく行かなかった。
太陽の熱で乾くと土で出来た人間はもろくなって砕けてしまった。雨が降れば濡れてどろどろになって溶けてしまった。
神々は改めて人間創出を試みた。太陽の熱や乾燥に耐え、雨にも溶けて流れない人間を創らねば。そこでこんどは木材で人間を作った。
木でできた人間は太陽の熱と、雨の水によく耐えることができた。しかし木材の人間には心がなかった。今でも木材でできた人間は生きている。すなわち猿がこれである。
神々はもう一度試みた。今度はトウモロコシで人間を創ることにした。トウモロコシの人間は、太陽の熱にも、降り注ぐ雨にも壊れることはなく、むしろ生き生きと成長していった。
トウモロコシの人間には心があった。トウモロコシの葉の中にある実はトウモロコシの芯があるように、トウモロコシの人間にも心があった。人間にはトウモロコシの心が宿っているのだ。
翻訳を読む時に、ポポル・ヴホ(Popol Vuh)の実物を読むと思います。
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「創る」と「作る」は同じですか。
「創り出す」と「作り出す」は同じですか。
いつ「どう」、いつ「どうやって」を書こうか。
「太陽の熱で乾くと」と「太陽の熱で乾かれば」は同じですか。
太陽の熱や乾燥に耐え、雨にも溶けて流れない人間を創らねば。「por ke eblu fari」か、「se eblas fari」か、「創らねば」の意味が何ですか。
雨の水によく耐えることができた。「雨の水によく耐えるのができた」も書けりますか。
僕には、「すなわち」が新しくて重要な言葉ですね。
すなわち猿がこれである。ここで「これで」は何ですか。
「intencis krei」か、「ekkreis」か、「denove kreis」か、「創ることにした」の意味が何です
nornen (Montri la profilon) 2016-majo-20 20:45:35
たとえば:今日事務所に行って来て、メールを読んで、客に会って、昼食を取って、いくつかの文書に署名していました。
たとえば:子供たちはまず習って、あとで遊んだ。
活動が同時に起こると、動詞の語幹を使います。(kaj samtempe, kaj ĝenerale)
たとえば:毎日事務所に行き、メールを読み、客に会い、昼食を取り、文書に署名しています。
たとえば:子供たちは習い、遊び、笑い、泣く。
これは、僕が正しく分かっていますか。
nornen (Montri la profilon) 2016-majo-20 23:22:27
Junpe (Montri la profilon) 2016-majo-22 10:55:50
「テレン・テレン・テレン」というのも音なのでしょうか?
nornen:活動が続々起こると、「~て」を使います。(kaj poste)私の感覚では、「続々」(つぎつぎに)起こるときにも、「同時に」起こるときにも、どちらを使ってもいいと思います。違いは、「動詞の語幹を使」うのは書き言葉で、あらたまった言い方のように感じられることです。私はしゃべるときには、「毎日事務所に行き、メールを読み、客に会い、昼食を取り…」や「子供たちは習い、遊び、笑い…」とは言いません。「〜て」を使います。書くときにも、私はほとんどいつも「〜て」を使います。
たとえば:今日事務所に行って来て、メールを読んで、客に会って、昼食を取って、いくつかの文書に署名していました。
たとえば:子供たちはまず習って、あとで遊んだ。
活動が同時に起こると、動詞の語幹を使います。(kaj samtempe, kaj ĝenerale)
たとえば:毎日事務所に行き、メールを読み、客に会い、昼食を取り、文書に署名しています。
たとえば:子供たちは習い、遊び、笑い、泣く。
これは、僕が正しく分かっていますか。
Blanka Meduzo:健康あればスタンプを押し、健康なければ押しません。
「〜て」を使うと「kaj poste (次に)」と誤解されるように思うからです。
でも、話しているときには「〜て」を使うかもしれません。
Blanka Meduzo:それから、「片足で立てない」と言って、もう一杯を飲み、屠殺が始まるまでに五杯を飲みました。
Blanka Meduzo:公衆衛生役人は酩酊を手に入れ、私達は売れる食肉を手に入れるのです。
「同じ時に」の意味でもないと思います。時間ではなくて、二つの事実を示していると思います。
Blanka Meduzo さんが前に示した文章については、私も「〜て」を使いたくないと実は最初に思いましたが、いろいろ考えるうちに、以下の文も自然に思えてきました(笑)。
「健康であればスタンプを押して、健康でなければ押しません。」
「それから『片足で立てない』と言って、もう一杯を飲んで、屠殺が始まるまでに五杯を飲みました。」
「公衆衛生役人は酩酊を手に入れて、私達は売れる食肉を手に入れるのです。」
Blanka Meduzo (Montri la profilon) 2016-majo-22 15:55:51
nornen:僕にはそんな能力はないです。
翻訳を読む時に、ポポル・ヴホ(Popol Vuh)の実物を読むと思います。
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「創る」と「作る」は同じですか。おおざっぱに言って、
「創り出す」と「作り出す」は同じですか。
創る krei
作る fari
です。
いつ「どう」、いつ「どうやって」を書こうか。難しいですね。
どう kiel
どうやって kiamaniere
とほぼ同じ使い分けだと思います。
「太陽の熱で乾くと」と「太陽の熱で乾かれば」は同じですか。「乾かれば」とは言いません。「乾けば」です。
「乾くと」と「乾けば」はほぼ同じ意味だと僕は思います。ただし、どちらを使うかはニュートラルではなく、何かの規制が働いていると思います。うまく説明出来ません。
「乾くといいな」、「乾けばいいな」はどちらも使いますが、
「乾くと困る」、「乾けば困る」の後者はあまり使いません。
乾くと困るというのは、乾くこと自体が誰かにとって困ったことである、という意味だと思います。
乾けば困るというのは、乾いた結果を受けて誰かが困ってしまう、という意味だと思います。
創らねば(ならない) devas krei太陽の熱や乾燥に耐え、雨にも溶けて流れない人間を創らねば。「por ke eblu fari」か、「se eblas fari」か、「創らねば」の意味が何ですか。
文の意味は違いますが、事態の表現としては同じことですね。雨の水によく耐えることができた。「雨の水によく耐えるのができた」も書けりますか。
Gxi bone toleris pluvon.
Oni kreis la novan kiu bone toleris pluvon.
僕には、「すなわち」が新しくて重要な言葉ですね。「すなわち」は、漢字では「即ち」(他の漢字を当てる場合もある)、t.e. (tio estas) と同じ。「つまり」「言い換えると」というのと同じ意味。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/119350/meaning/m0u/
1 前に述べた事を別の言葉で説明しなおすときに用いる。言いかえれば。つまり。「日本の首都―東京」
2 前に述べた事と次に述べる事とが、まったく同じであることを表す。とりもなおさず。まさしく。「生きることは―戦いである」
(Ankoraux vivas la ligna fusxa homo,) t.e. simio estas tio.すなわち猿がこれである。ここで「これで」は何ですか。
ここでいう「これ」とは ligna homo のことです。
「すなわち猿がそれである」や「すなわちそれは猿である」や「それは猿のことだ」でも良いです。
「intencis krei」か、「ekkreis」か、「denove kreis」か、「創ることにした」の意味が何です創ることにした decidis krei です。
研究熱心ですね。
nornen (Montri la profilon) 2016-majo-22 19:12:33
Blanka Meduzo:研究熱心ですね。研究熱心ではなければ、いつも学びません。
nornen (Montri la profilon) 2016-majo-23 16:00:42
スペイン語は、「es que」という言葉がよく使われる。これの意味は「estas ke」。説明したい時に、この言葉を使う。
たとえば:
A: ¿Por qué no veniste ayer?(何で来なかった?)
B: Es que no tenía tiempo.(Es que 私は忙しかった。)
「es que」と「のだ・んだ」が同じだと思います。
A: 何で来なかった?
B: 私は忙しかったんだ。
日本語で「のだ・んだ」が説明を言い表しますか。
下記が言えますか:
緊張しています。重要な顧客が来るんです。
Blanka Meduzo (Montri la profilon) 2016-majo-23 22:10:40
nornen:「のだ・んだ」の使用方法言います。適切に「んだ」「のだ」が使われています。
日本語で「のだ・んだ」が説明を言い表しますか。
下記が言えますか:
緊張しています。重要な顧客が来るんです。
「のだ」「んだ」「のです」「んです」は事情を説明するときに使われます。
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https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/teach/tsu...
ここに、そのことが説明してあります。
まだちゃんと見ていないので、どの程度nornenさんやその他非日本語話者の方の日本語についての疑問に応えられるか分かりませんが、皆さんにも紹介します。
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/teach/tsu...
国際交流基金の「日本語通信教育」です。
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自分の感覚だけで説明するのは控えて、もっと日本語教育の蓄積をきちんと参照してお答えすべきと私は思っていましたが、あまりちゃんとそのことが追及できていませんでした。
日本語の文法は、義務教育で教わる文法と、非日本語話者に教える文法とでは、かなり考え方が違うと思います。(そのことについてちゃんと調べたことはありませんが)
日本語が母語なら「んだ」の使い方は学校では習わなくて、大量の読書と会話で身についてしまっているのではないかな。たとえば小中学校で、どういうときに「なのだ」「んだ」を使えなどと習った記憶は僕にはありません。
Junpe (Montri la profilon) 2016-majo-24 02:50:01
何が適切かは、日本語を学ぶ人が何を求めるのかによると思います。
「のだ・んだ」をいつ付けるのが自然かについては、個人の感覚によってかなり違うのではないでしょうか。
nornen さんが挙げた例文
nornen:A: 何で来なかった?
B: 私は忙しかったんだ。
nornen:「緊張しています。重要な顧客が来るんです。については、付けても付けなくてもどちらでも自然だと思います。
Blanka Meduzo:「のだ」「んだ」「のです」「んです」は事情を説明するときに使われます。私は納得できません。
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https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/teach/tsu...
ここに、そのことが説明してあります。
以下の例文で「のだ・んだ」を付けるのと付けないのとどちらが自然かを
ポンです。タイのバンコクから(a.来ました b.来たんです)。今、日本語学校で日本語を(a.勉強しています b.勉強しているんです)。「来たんです」も「勉強しているんです」もここにいることの説明でしょう。今ここ日本にいることがわかる相手に対して「バンコクから来たんです」、「日本語を勉強しているんです」と
最後に、私は先生方に感謝(a.したいです b.したいのです)。先生方はとても親切で、(a.やさしかったです b.やさしかったのです)。「感謝したいのです」はここでしゃべる理由を述べていると私はとらえます。「やさしかったのです」は前の文の理由になります。
(ビルの8階にいます。窓から下を見ると、傘を差して歩いている人が見えます。それを見て)どちらも自然
「あ、雨が(a.降っている b.降っているんだ)。」
「これ九州のお土産です。」どちらも自然
「そうですか。九州に(a.行きました b.行ったのです)ね。」
「キムさん、こんな時間にどこへ(a.行きます b.行くんです)か。もう遅いですよ。」どちらも自然
2.もし敬語がわかれば、目上の人と話すのも簡単に(a.なるかもしれません b.なるのかもしれません)。どちらも自然
以下の文については、自然か自然でないかというより、意味の違いが大きいと思います。
1.この本を読んでください。いろいろなことが(a.わかるでしょう b.わかるんでしょう)。a: 読む結果。
b: 「読んでください」と言う理由。(「いろいろなことがわか」らない人はその本を読めないだろう。)
3.彼は失敗を経験したから、人の気持ちがわかるように(a.なったでしょう b.なったのでしょう)
a: 経験した結果。
b: あること(前に述べたこと、あるいは聞き手が知っている事柄)についての
(「彼は失敗を経験したから、人の気持ちがわかるようになった」という全体が
いかがでしょうか。
Blanka Meduzo (Montri la profilon) 2016-majo-24 04:20:42
Junpe:個人の感覚には理由があるものなので、それが「日本語教育」で説明されるものと合わないからといって必ずしもそれが不適切だということにはならないと思います。ある個人がどういう感覚をもっているのか、何を意識しているのかはその個人にしかわかりません。大きな異論はありまないのだが、いかに個人差があるんだからといって、何にでも「んだ」「のだ」をつけるわけには行かないんじゃないかな。そこに法則がないわけではないのだと思うんです。
何が適切かは、日本語を学ぶ人が何を求めるのかによると思います。
「のだ・んだ」をいつ付けるのが自然かについては、個人の感覚によってかなり違うのではないでしょうか。
僕はlernuでは blanka meduzo と名乗っているのだ。朝は六時に起きたんだ。朝ごはんは食べたんだ。今は働いているのだが、五時になったら帰りたいんだ。僕はJunpeさんもnornenさんも尊敬しているんだ。だけど、このように、なんにでも、んだんだのだのだつけていると、文章がブチブチきれてしまうんだ。そしてだんだんロボットか、「裸の大将」のように聞こえてくるのだ。しかも、使用頻度が上がるにつれ、のだ・んだの意味がすごく薄まってきている気がするのだ。うそだと思うんなら、何にでも「んだんだ」つけてみるんだな。
だから、日本語教育の蓄積を無視しないで、きちんと踏まえるべきなのだ、とそう僕は書いたんだ。それは、絶対視することとはちがうんだ、僕の意見としては。