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日本語の練習

od nornen, 25. april 2016

Sporočila: 98

Jezik: 日本語

nornen (Prikaži profil) 25. april 2016 17:48:16

日本語の練習がしたいから、短い本文を書くように努めます。誤差を修正すれば、非常に感謝しています。

第一章

私は山の小さな村に生まれました。
これは伝記の美しい開始だけど、嘘です。山に確かに生まれたけど、八十人が住んでいるところは村と言うのはすべての正しい村に侮辱です。正しい村には店舗や居酒屋や教会があります。私の集落にはそれの何もありません。
文句を言っていません。幼年時代はこのところにとてもいいでした。店舗がありません…だから何?私の家族は鶏と豚があるから、卵と豚肉を店舗に買うのは必要でありませんでした。村に牛や鵞鳥や釣堀があるから、だれも食物を店舗に買っていませんでした。居酒屋がありません…だから何?老人達は隣人の居間の中に麦酒を飲みに会って、夏に家の前で座っていました。
人生は容易くて簡単で静穏でした。

5rree5 (Prikaži profil) 25. april 2016 21:36:46

こんにちは!
私の日本語レベルは少しだけ、全くが分かりません。
nornenさんは山の小さな村に住むね。。。面白い。
私はブラジル人ですね。
norsenさんの家の前は昼間にいつも太陽が見えますか。ブラジルで、僕の先生は"一人、一太陽"と言った。
私はnorsenの文章が好きです。 ありがとう。

Junpe (Prikaži profil) 28. april 2016 02:37:55

私の思う自然な日本語との誤差について述べます。
私は山の小さな村に生まれました。
これは伝記の美しい開始語り始めだけど、嘘です。
「開始」よりも「語り始め」の方が自然だと思います。

私の語感では、「伝記」は行為ではなく語られる言葉なので、「開始(行為を始めること、出来事が始まること)」より「語り始め(言葉を語り始めること)」の方が自然に思えるのだと思います。
山に確かに生まれたけど、八十人が住んでいるところ村と言うのはすべての正しいちゃんとした村に侮辱です。
一つの文の中の「は」は少ない方がよいと思います。

「正しい」は「正義の( morale ĝusta )」という意味か「法/規則にのっとった( laŭleĝa /laŭregula )」という意味になると思います。

「ちゃんとした村」は「 bonorda vilaĝo 」あるいは「『村』という言葉の文字通りの意味の( vilaĝo, kiun la vorto "vilaĝo" laŭlvorte signifas )」という意味になると思います。

「侮辱」は強く重い言葉なので、軽い意味なら、「すべてのちゃんとした村に対して失礼です」でもいいかもしれません。
正しいちゃんとした村には店舗や居酒屋や教会があります。
「店舗」とは専門的な語のような気がします(私の語感では)。「店」と言う方が普通で、わかりやすいと思います。
私の集落にはそれの何もありません。文句を言っていません。
前の発言の理由や状況を説明するなら、「言っているのです/ 言っているのではありません」とすると、説明していることをより明確に示せます。
幼年時代はこのところにここはとてもいいでしたよかった
「幼年時代はここはとてもよかった( Ĉi tiu loko estis tre bona en mia infaneco. )」という意味でしょうか?「いい=よい」の過去は「よかった」になります。
店舗がありません…だから何?私の家族は鶏と豚があるから、卵と豚肉を店舗買うのは必要でありませんでした。村に牛や鵞鳥や釣堀があるから、だれも食物を店舗買っていませんでした。
すみません。「鵞鳥(がちょう)」が読めませんでした(笑)。私は漢字が苦手です。
居酒屋がありません…だから何?老人達は隣人近所の人の居間の中麦酒を飲みに会って、夏に家の前で座っていました。
「隣人」よりも「近所の人」と言うほうが普通だと思います。

「麦酒」とはビールのことでしょうか。カタカナをなるべく使わないようにしている私も「ビール」と言ってしまうくらいに「ビール」という言葉が普通になってしまっています。でも、「麦酒」の方が美しい日本語かもしれません。

「老人達は」…「会って」の間の「近所の人の居間の中で麦酒を飲みに」が長いので、私なら「老人達は」のあとに「、」を入れます。

「夏以外には〜で、夏には〜」と対比をしたいのなら、「は」を入れた方がよいと思います。
人生は容易くて簡単単純で静穏でした。
「簡単で」は「単純で( simpla )」と「容易くて( facila )」の意味があるようです。「容易くて」と意味が同じにならない「単純で」の方が合っているかなと思いました。

Junpe (Prikaži profil) 28. april 2016 02:46:32

5rree5:ブラジルで、僕の先生は"一人、一太陽"と言った。
「一人、一太陽」ってどういう意味ですか?

nornen (Prikaži profil) 28. april 2016 14:53:15

ユンペさんが細々と誤差を修正するのに時間がかかるから、どうもありがとうございます。恩返しをしたいけど、方法を知りません。過去には私がスペインとラテン語を教えたら、今はドイツ語を教えているから、この言語について質問があれば、尋ねてください。

論評を怠りなく読んだんですよ。

junpe:「幼年時代はここはとてもよかった( Ĉi tiu loko estis tre bona en mia infaneco. )」という意味でしょうか?
「Mia infanteco en tiu/tia loko estis bona.」と言いたかったんです。「こんなところに住んでいるのはとてもいい幼年時代でしたよ。」と言うのはいいの?

Junpe (Prikaži profil) 28. april 2016 20:09:24

nornen:「Mia infanteco en tiu/tia loko estis bona.」と言いたかったんです。「こんなところに住んでいるのはとてもいい幼年時代でしたよ。」と言うのはいいの?
いいと思います。

あるいは、

「こんなところに住んでいたのはとてもいい幼年時代でしたよ。」

「ここでの幼年時代はとてもよかった。」

nornen さんの文章と私の思う自然な日本語との差異は、細かいところだけです。内容も面白い。

Blanka Meduzo (Prikaži profil) 30. april 2016 14:22:50

nornen:日本語の練習がしたいから、短い本文を書くように努めます。誤差を修正すれば、非常に感謝しています。

第一章

私は山の小さな村に生まれました。
これは伝記の美しい開始だけど、嘘です。山に確かに生まれたけど、八十人が住んでいるところは村と言うのはすべての正しい村に侮辱です。正しい村には店舗や居酒屋や教会があります。私の集落にはそれの何もありません。
文句を言っていません。幼年時代はこのところにとてもいいでした。店舗がありません…だから何?私の家族は鶏と豚があるから、卵と豚肉を店舗に買うのは必要でありませんでした。村に牛や鵞鳥や釣堀があるから、だれも食物を店舗に買っていませんでした。居酒屋がありません…だから何?老人達は隣人の居間の中に麦酒を飲みに会って、夏に家の前で座っていました。
人生は容易くて簡単で静穏でした。
僕は別の視点から書き直して見ます。必ずしも原文の意図を汲み取れていないかもしれませんが、読み比べてみるのも面白いかもしれません。
私は山の小さな村に生まれました。
これは伝記の美しい書き出しかもしれませんが、作り話です(???)。山に確かに生まれたけど、八十人しか人がが住んでいないところを村と呼ぶのは、ちゃんとした村に対して失礼かもしれません。ちゃんとした村には店や居酒屋や教会があります。しかし私の集落には何もありません。
不満を言っているのではありません。むしろここで過ごした幼年時代はとても良かったと思っています。店がない…それがどうしたというのでしょうか。私の家には鶏と豚がいるので、卵と豚肉は店で買わなければならないことはなかったのです。村には牛や鵞鳥や釣堀もありましたから、だれも食物を店で買うこと(買う必要)はありません。居酒屋もありませんでした…でもそれがなんだというのでしょう。老人達は隣近所〔となりきんじょ〕の家の居間でビールを酌み交わし、夏には家の外に腰掛けて(楽しく)過ごしていました。
村人の生活はシンプルで静かなものでした。
nornenさんの文の初めのところの「嘘です」ということの、意味や意図がよく分かりませんでした。フィクション fikcio という意味なら、挿入する必要はないように思います。
「店舗」というのは、vendejo というよりは、domo / cxambro / tendo por vendado という意味なので、単に「店」が良いです。
Vivo estis facila (facile) というのを日本語ではどう訳すべきか。「生活しやすい」「暮らしやすい」かなぁ。

Amike

nornen (Prikaži profil) 01. maj 2016 19:17:43

白海月さんがridulo.gif書き直したのをいただきありがとうございます。とても面白いのだよ。こんなに自然な日本語が学べるんだ。

blanka meduzo:nornenさんの文の初めのところの「嘘です」ということの、意味や意図がよく分かりませんでした。フィクション fikcio という意味なら、挿入する必要はないように思います。
すみません。私は意図を明確にするのができなかった。意図はこれ:私が山の村に生まれたのは真実よ。だけど私の村はちゃんとしたのではないから、「嘘です」と書いたんだ。山は真実のだ。村は真実のだ。ちゃんとした村は嘘のだ。
こんなに文の初めを書き直しれば、意図が理解できるの?
私は山の小さな村に生まれました。これは伝記の美しい語り始めかもしれませんが、必ずしも真実ではありません。私が山に本当に生まれたけど、このところは村と言うに値しません。八十人が住んでいるところを村と言うのはすべてのちゃんとした村に侮辱です。

Amike kaj dankante

nornen (Prikaži profil) 01. maj 2016 19:32:49

ユンペさんの修正を考慮に入れた、文を書き直したんだ。
今まで、meduzoさんの答えを考慮に入れなかった。必ず答えを分かった時に、再び文を書き直します。すみません。

Junpe (Prikaži profil) 02. maj 2016 03:12:13

確かに Blanka Meduzo さんの文章の方が自然に見えます。私も思い切って書き直してみます。私ならこう書きます。
私は山の小さな村に生まれました。…と書けば伝記として美しい書き出しになりますが、嘘です。たしかに山に生まれましたが、八十人しかいないところを村と呼ぶのは本当の村に対して失礼です。本当の村には店や居酒屋や教会があります。しかし私の集落にはどれもありません。文句を言っているのではありません。ここでの幼年時代はとてもよいものでした。店がない…それがどうしたというのでしょう。私の家には鶏と豚がいて、卵や豚肉を店で買う必要がありませんでした。集落には牛やガチョウがいて釣り堀もありましたから、食べ物を店で買うことがありませんでした。居酒屋もない…それがどうしたというのでしょう。年配の人たちは近所の家の居間の中で、夏には家の外で座って麦酒を飲んでいました。

人生は気楽で単純で静かでした。
以下は説明です。
私は山の小さな村に生まれました。…と書けば伝記として美しい書き出しになりますが、嘘です。
私は nornen さんの元の文章のままでも「嘘」の意図はわかりましたが、「…と書けば」と仮定の話にすればわかりやすくなるかもしれません。段落を一つにすることでもわかりやすくなると思います。
たしかに山に生まれましたが、八十人しかいないところを村と呼ぶのは本当の村に対して失礼です。
「たしかに」と「山に」では、「たしかに」の方が長いので、長い方を私なら前に置きます。長い方を前に置く方がわかりやすいというのは、本多勝一さんという人から私は教わりました。

「ちゃんとした」は「本当の」と言い換えてもいいと思います。「本当の」の方が丁寧で、「です・ます」調の文章に合っているように思います。
しかし私の集落にはどれもありません。文句を言っているのではありません。
ここも、私なら段落を一つにします。

段落の問題は、意見がわかれるところだと思います。
集落には牛やガチョウがいて釣り堀もありましたから
「牛やガチョウ」は「いる」で、「釣り堀」は「ある」とするのが適当だと思います。
年配の人たちは近所の家の居間の中で、夏には家の外で座って麦酒を飲んでいました。
「麦酒」という言葉を私は nornen さんから教わり、気に入りました。でも「ビール」が一般的だとは思います。

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